母方のおばあちゃん

本当におばあちゃんっ子だった。家が近かったから小中高と金曜の夜はおばあちゃんの家に泊まりに行くのが当たり前だった。
おばあちゃん家あるあるだけど、いつもアイスとジュースがあって、僕が中学や高校の時友達と遊びに行く時は必ずお小遣いをくれた。高校生の時からもうバイトをしてたし受け取るのを断ってもそれでもおばあちゃんは渡してくれた。

中学の時、学校にほとんど行かずおばあちゃんの家ですごしていた時期もあった。
家にもいたくないし、僕の唯一の逃げ場だった。そこでかくまってくれていた。
学校にも行かない僕をおばあちゃんとおじいちゃんは責めることなく優しく迎えてくれた。

僕が東京の大学に合格した時は、おばあちゃんは僕の卒業式に行くのが夢だと言っていた。母親は看護学校だったので、おばあちゃんとおじいちゃんにとっては初めて大学の卒業式になるはずだった。

僕が大学生ごろからおばあちゃんは難病になってしまって、入院生活が始まった。
一時期退院して介護施設に入って帰省する度に必ず会いに行った。会うとまたお小遣いを渡してくれた。
退院はできたものの、その後しばらくしてまた病院へ入院することになった。

最後おばあちゃんに病院で会った時、もうおばあちゃんはほとんど喋れない状態だと聞かされていたけど、僕が会った時はちゃんと喋ってくれた。

北海道に来て1年目くらいの時に母親から夜中電話があった。もう今晩でおばあちゃんはダメかもしれないと。
そうか、でも、順番だから仕方ない、生きていればいつかそうなることだし、と自分に言い聞かせた。

朝起きると朝の4時頃母親から着信が一件入っていた。その着信で全てを察した。
折り返すと朝方おばあちゃんはなくなったらしい。不思議と涙は出なかった。「そうか、そっち帰るわ」と母親に返した。

お葬式は家族葬で行われ、本当に優しいおばあちゃんだったから、お葬式でもどこかで「そんなしっかりしゃきっとせんでええんやで」とおばあちゃんに言われてるみたいだった。なので、僕は気楽だった。

最後、棺桶を締める時に、母親の提案でおばあちゃんに手紙を書こうとなっていたのでその手紙を入れた。
「おばあちゃんがいたから中学と高校とつらい時期を乗り越えられました。もしこの先も見守り続けてくれるなら、いつか孫の顔でも見せたいです」そう書いたの覚えている。

手紙を入れ棺桶を締める時、それまで気楽にしてたのが嘘のように涙が溢れてきた。本当にありがとうございましたという気持ちと涙が溢れてきた。

本当におばあちゃんの孫になれて幸せだった。